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 『メイプルホール』とはつまり講堂のことだ。講堂というのは入学式や卒業式を行ったり、何らかの集会で教師陣が生徒に向けて話をする際に使う施設であるが、戦前の頃とは違い、大抵の学校では体育館を代わりに使用している場合が多い。ところが、最近新築したばかりの広島二高では体育館とは別に、講堂を設けている。広島名物(というより宮島名物)の紅葉からとった愛称『メイプルホール』は、生徒全員に行き渡るほどの座席が階段状に並べられ、さながらどこかの劇場と見紛うほどの正しく「ホール」であった。
 この日の集会のために集められた生徒たちは、いつもの通り決められた席に座っていく。所々空席が目立つのは、慰霊式典に出席している生徒が相当数いるからだった。

 竜彦が自分の席に座ると、早速真後ろにいた衛が話しかけてくる。
 「ところでさ、こないだ言った今日のライヴの件、今度は出てくれるだろうな」
 竜彦は、またかよ、と少し呆れた顔をした。
 「今日のはさ、市内でもかなり実力のあるバンドも来るんだよ。結構でかいイベントだし、お前のギターがどーしても要るんだって」
 「俺なんかに頼らなきゃならん実力なら出なきゃいいだろが」
 竜彦の反論に、衛は少し顔を顰(しか)める。
 「・・・くッ、痛い所を突きやがって。とにかく頼むよ。」
 「・・・ふぅ・・・お前はいいとして、他の奴らはどうなんだよ」
 竜彦はしつこく食い下がる衛に観念したように尋ねた。
 思えばいつもそうだった。衛は事あるたびに竜彦を自分のバンドに誘ってくる。衛は軽音楽部に所属していて、学園祭なんかでも大掛かりなライヴを開くなど、積極的に活動している。しかも、それだけに飽き足らず、仲間を募って市内のライヴハウスを回って演奏しまくっていた。・・・いつだったか、竜彦は戯れに軽音楽部の部室で衛のバンドとセッションしてみたが、それ以来彼は自分のバンドに入るように執拗に誘ってくるのだった。何度かメンバーが足りないという理由とかでサポートして演奏したし、暇なときにはバンドの練習に付き合ってギターを弾いたりしていたが、竜彦は頑としてバンドに入るのを拒んでいた。
 「あいつらも当然いいって言ってるよ。それどころか歓迎してるさ。『竜のギターが入れば曲に厚みが増す』って」
 確かに、竜彦のギターの腕は誰もが認めるものだった。周りの連中はどうして彼が軽音楽部に所属しないのか不思議がったくらいだ。前にそのことを誰かに尋ねられたとき、竜彦はただ一言、『面倒くさいから』。
 実際、彼は筋金入りの帰宅部だし、率先して面倒ごとを引き受けるようなタイプではなかった。衛のバンドとセッションするのも気が向いたときだし、彼にとっては単なる暇つぶし以外の何者でもなかった。
 「そう言われてもな・・・ほとんど練習に参加してないし」
 「それなら大丈夫。全部前にお前と合わせたやつだから」
 「・・・あれは適当にやっただけだぞ」
 「その適当であれだけの音が出せたんだから十分だ。俺だけじゃない、バンドのメンバーはみんなそう言ってる」
 「・・・」
 無言になる竜彦。衛はこれが止めだという様にニヤリと笑みを浮かべるとこう続けた。
 「それにさ、サッチも見に行くって言ってんだぞ」
 「祥子が?」
 竜彦は少し驚いたのか、少し声を上げて聞き返した。
 「あぁ、俺が誘ったら二つ返事できいてくれたぜ」
 「・・・そうか」
 「?・・・余り反応しないな。嬉しくないのか?サッチ、お前が出るって言ったら喜んで行くって言ってたが」
 「まだ出るとは言ってないだろが・・・何処までも勝手なヤツめ。祥子を誘うより先にお前の連れはどうした」
 「フッ、愚問だな。別に改まって言うまでもないだろ。優希はサッチと一緒に行くってさ」
 「ふ〜ん」
 興味ないように返事をして、前を向こうとする竜彦の肩を衛はがっしりと掴む。
 「さて、竜彦くん。ここまで言われたからには行くしかないよな」
 「お、俺は別に――」
 竜彦がささやかな反論を試みようとすると

 「静かにしろっ!!もう始まるぞッ!!」

 生活指導担当の体育教師の怒号がマイクを通してホール中に鳴り響き、ホール内は水を打ったように静まり返った。
 それを合図に今年も恒例の平和集会が始まる。



 市長の長ったらしいが真剣な平和宣言や首相の短くて形式的な挨拶が向こうから聞こえてくる中、慰霊式典の準備は続いていた。そんな中、見るからにお年を召した人達がぼちぼちこの場にやって来て、即席の記帳場で名前を書いていく。
 「祥子、もうすぐ始まるね」
 その様子を見ていた吹奏楽部の友人が祥子に話しかけた。
 「うん・・・何か緊張してきちゃった」
 「祥子らしくないよ。いつも堂々と演奏してるじゃない」
 「・・・私はいつも緊張してるよ。肝心なところでヘマしちゃったらどうしようとかさ」
 「そうなんだぁ。なんか意外」
 「そうだよぉー」
 祥子は少しおどけた表情でそう言った。

 そんなやり取りをしながら、祥子は、やっぱり自分は周りから完璧な人間なんだと思われているんだなぁ、と感じていた。昔からそうだった。勉強は出来て当たり前、体育もこなせて当たり前、吹奏楽だってフルートの演奏を間違いなく堂々とこなしてしまうのが当たり前。それがどうしても嫌だとか、気に食わないとか、苦しんでいるとかという、どこかのドラマにありがちな思いは別に抱いてはいないが、ただ知って欲しかった。自分だって失敗したり、プレッシャーを感じたり、くよくよ悩んだりすることもあるんだって事を。

 仮に自分が完璧な人間だったとしたら、たっくんとのことだって――

 (な、何考えてるの、私?!)
 一瞬脳裏に浮かべたその考えを、祥子は振り払う。最近はいつもこうだ。気が付くと幼馴染の少年のことを考えてしまう。
 「どうしたの?」
 「う、ううん。なんでもないよ」
 ぼうっとしている祥子に問いかける友人の声に、祥子はただそう言ってごまかすことしか出来なかった。

 そうこうしている間にふと平和大通りの方を見ると、杖をついた老婆が横断歩道を渡ってくるのが見えた。年の頃は九十を過ぎたのではないかと思われるくらいよぼよぼで、何とか立って歩いている、という感じだった。足どりもゆっくりで、信号が赤になってもまだ横断歩道の真ん中あたりにいた。
 「あのお婆さん、何か危なくない?」
 「そうね、誰も付いてないの?」
 老婆の姿を見つけた生徒たちは色々言っているが、誰もそこに近づこうとはしない。みんな、自分とは関係ない、という雰囲気で見ていた。

 老婆は車のクラクションに追い立てられながら何とかこちら側へとやって来た。そのまま記帳場のほうへと歩いてくる。どうやら本当に傍についている人は居ないらしい。そのまま、本当にゆっくりとした足並みで歩いてくる。
 生徒たちは、大丈夫かな、と思いながらも自分から助けに行こうとしなかった。
 すると、老婆は瞬間フラっとなり、地面に倒れ掛かる。誰もが地面に身体を打ちつけると思ったその時、一人の女子生徒がその老婆が倒れないように支えていた。
 それは祥子だった。

 「大丈夫ですか?」
 祥子の問いかけに、老婆は何度も頷き、
 「大丈夫、大丈夫じゃ・・・有難う。お嬢さん、有難う・・・」
 「いえ、そんな・・・」
 祥子はどこか涙ぐんでいる老婆の真摯なお礼の言葉に、ちょっと恥ずかしくなって頬を紅く染めた。

 祥子はそのまま記帳場まで付き添い、さらに式典の遺族席まで案内した。老婆は祥子にずっと礼を言っていた。
 「そんな、いいですよ。大した事してないですし・・・」
 そう言う祥子を、老婆は「いいえ」と言って制した。
 「うちは本当に感謝しとるんよ・・・まるで娘に付き添ってもらっとるようで・・・嬉しかった・・・」
 本当に嬉しそうな顔をして喜ぶ老婆を見て、祥子は少し安心した。すると、老婆は遠くを見つめるようにして、こう続けた。
 「たった一人の娘じゃったあの子は・・・ ピカにやられて・・・ここで死んでしもうたから・・・」
 「そうだったんですか・・・」
 祥子はそれ以上言うことが出来なかった。
 原爆が落ちて六十年。死んでいった少女たちの親も、もう殆どこの世には居ない。そんな中で、その老婆は今もまだ生き続けている。たった一人の娘を突然失ってしまった悲しみを抱えて。それを思うと、祥子にはこの老婆にかける言葉を思いつけなかった。

 「祥子、もうすぐ始まるよ」
 沈黙を破るように友人が祥子を呼びに来た。挨拶もそこそこに祥子は吹奏楽部用のテントに戻る。老婆は戻っていく祥子に、何度も何度もお礼の言葉を繰り返していた。

 遺族や生徒がひしめく中で、今年もいつも通りに慰霊式典が始まる。





 校長が演壇に立ってまだ話している。話し始めてからもう十分以上経っていた。校長の長話好きは有名だが、今日は格別の長さだ。竜彦はうんざりしながら校長の声を右耳から左耳へ流していた。時々、校長の声が泣いているかのように上擦っていたみたいだが、竜彦の意識の上にそれが上ってくることはなかった。
 竜彦は、校長の話どころかこの集会がさっさと終わって欲しいと思っていた。どうして休みの真っ只中に、こんなに暑い中で、このような面倒くさい行事に駆り出されなければならないのか。一体どれだけの人間が死んだのか知らないが、所詮六十年昔のこと。そんな過去の亡霊みたいなものに付き合わされることなんて無いじゃないか――竜彦は真夏のこの行事に対して半ば憎しみに近いものを抱えていた。恐らく、ここにいる連中のほとんどが面倒だと感じているんじゃないか。竜彦は勝手にそう思っていた。そして、炎天下の下、わざわざ平和公園にまで行かされている連中は災難であると。
 いつだったかそのようなことをふと幼馴染の少女に話したとき、彼女はむきになって反論したことを、ふと竜彦は思い出した。その時彼女が、『たっくんがそんな事言うなんて思わなかった・・・』と涙を浮かべていたことも。
 (祥子は真面目だからな・・・)
 いつだって彼女――津田祥子はそうだった。何処までも真面目で、一生懸命だった。周りの連中も、そんな彼女を頼りにしていたし、竜彦もそんな彼女に好意を持っていた。

 ――そう、好きだった。いつからか分からないが、気が付いたら彼女を目で追っている自分がいた。でも、だからこそ彼女の真面目さが疎ましく思うこともあった。自分は、何に対しても無気力で、勉強でも運動でも何でもある程度のことはこなせても、何かに対して一生懸命になることは無かった。だから、真面目な優等生で周りの連中から尊敬の念と好意的な眼差しが向けられる祥子が、たまに遠い存在に思えて仕方なくなる。幼馴染として、ずっと一緒にいたはずなのに――いや、今でも昔と同じように話しているはずなのに、実際の距離以上に彼女が離れたところにいるように感じていた。
 それ故に、竜彦は祥子に自分の想いを打ち明けてはいなかった。それどころか、高校に入ってからどこか彼女に素っ気ない態度をとっていたように思う。それは、自分から離れていくように思えた彼女へのささやかな抵抗だったのかもしれない――

 ――などと彼女のことを考えていると、急にさっき衛が言ったことを思い出した。

 『サッチ、お前が出るって言ったら喜んで行くって言ってたが』

 別に祥子が見に行くからといって、二つ返事でライヴに参加すると言うわけでは決して無いが、少し迷いを見せたのもまた事実だった。実際どうすべきか、今の竜彦はかなり迷っていた。別にすることもないし、衛がバンドに誘ってくるのは煩わしくもあるが、正直嬉しくもあったからだ。少なくとも衛たちは自分を必要としてくれていると思えるのが心地良かった。ただ、中学の『あの時』以来、人前でギターを弾くのにどこか抵抗を抱えていたのもまた事実だった。
 (昔は、そんなんじゃなかったのにな・・・)
 竜彦は、ギターを弾き始めた頃のことを思い返した――



 それは、中学校に入ってすぐのことだった。思春期を迎え、どこか漠然と大人に近づいた気がしたそんな頃、ふとラジオをつけて聴いた外国のロックミュージシャンの曲に衝撃を受けた。哀愁漂う美しさの中にも激しさを伴うその旋律に魅了された竜彦は、みるみるうちにのめり込んでいった。耳がイカレるかと思うくらいにCDを聴き漁った。周りの連中が当たり障りの無いJ-POPを聴いているのを横目に、レベルの高い洋楽を聴いているというのは少し大人になった気がして気持ちがよかった。洋楽趣味が高じて衛と知り合い、友人になったのもこの頃だったような気がする。
 音楽を聴いていたのが音楽を奏でたいと思うようになるまでそれほど時間は掛からなかった。近所の楽器屋で、安いギターを買って暇さえあれば弾くようになった。今にして思うと、何も知らずにエレキではなくアコースティックギターを買ってしまったために、本物が奏でるような音にはならなかったが、当時の竜彦はそれでも満足だった。あの頃は、好きな曲が弾けるようになるのが快感で、家に帰るとすぐ部屋に篭ってギターを弾くという生活だった。

 そんなある日のこと。
 「竜彦〜!さっちゃんが来たわよ〜!!」
 母親が来客を大声で告げたが、ギターを弾くのに夢中な竜彦は気付くはずも無かった。
 暫くもしないうちに、竜彦の部屋のドアが開いた。
 「あれ?たっくん、何してるの?」
 「えっ、祥子??!!」
 突然の祥子の登場に驚いた竜彦は咄嗟にギターを隠そうとするが、時既に遅い。小さい頃からお隣さんであるから、母親は祥子を容易に家の中に通してしまう。竜彦の頭からそれはすっぽりと抜けていたのだ。
 「それ、ギターだよね?たっくん、ギター弾けるんだ」
 嬉しそうに驚いている祥子を見ながら、竜彦は困惑した。ギターを弾いているのは楽しいが、そのことは余り他人に知られたくなかった。自分で弾いていて分かるのだが、ギターの腕は他と比べて劣っている。まだまだ他人に聴かせられるものではない、と思っていたからだ。特に祥子には知られたくなかった。彼女に下手なギターを聴かせて、彼女の落胆する顔を見たくはなかった。
そんな竜彦を知ってか知らずか、
「たっくん、最近すぐ家に帰っちゃうから何してるのかなと思ってたら、こんなことしてたんだ・・・ねぇ、ちょっと弾いてみてよ」
 祥子は竜彦にせがむ。
 「いや、始めたばっかで余り聴かせられるもんじゃないし・・・」
 「それでもいいから、ね」
 何度も問答を重ねた挙句、観念した竜彦はそれでもまだ簡単と思われる曲のワンフレーズを弾いてみせた。本当に大して上手くないから、と但し文句を付けながら。

 演奏が終わって祥子を見てみると、彼女は呆然として竜彦を見つめていた。
 「・・・やっぱり、下手・・・だよね?」
 恐る恐る尋ねる竜彦に、祥子はただ首を横にブンブンと振って答えた。
 しばし無言になる部屋。すると、漸く祥子が口を開く。
 「――凄い・・・上手いよ、たっくん!」
 「・・・ほんとに?世辞なんか要らないよ」
 「違う、違う!本当に上手だよ。私、感動しちゃった。たっくんにこんな特技があるなんて――」
 祥子の口調に嘘や下手さを庇い立てするような思い遣り、というものは感じられない。本当に竜彦のギターに感動してくれた。それは竜彦にも容易に分かった。
 「ねえ、ねえ。他の曲も出来る?」
 「出来ないことは無いけど・・・」
 竜彦は祥子の求めるままにギターを奏でていった。その度に、祥子は感嘆の声を上げた。竜彦はそれが素直に嬉しかった。

 暫くすると夕方になり、母親が促したこともあって、祥子も家に帰ることになった。
 玄関に立って外に出ようというとき、祥子は竜彦のほうを上目遣いで見て、少し小さめな声で言った。
 「たっくん・・・また、ギター、聴きに行って、いい?」
 おずおずと尋ねる祥子に、竜彦は少々はにかみながら答えた。
 「う、うん・・・いいよ」



 その時、嬉しそうに笑った祥子の姿は今でも覚えている。あの時以来、祥子はよく家に来ては竜彦のギターを聴いていた。何もする事なく、ただ竜彦の傍に黙って座って。暫くすると、互いに思春期に本格的に入り、昔のように家に来ると言うことはなくなったが、学校の部活動でギターを弾く竜彦を祥子はしばしば見に来たものだった。相変わらず嬉しそうな顔をして、何も言わずに聴いていてくれた。嬉しそうに自分の奏でだす音を聴いている祥子の存在がとても嬉しかった。彼女の前でギターを弾くのが自分にとって生きがいとさえ思えるようになってきたのだが――

 それを考えるのは、今は止めておこう。考えれば考えるだけ惨めになるだけだから。あれ以来、あまり人前でギターを弾かなくなってしまった。祥子も時々、ライヴで演奏を聴きたいと言っていたが、竜彦は半ば頑なに拒んでいた。ヘルプで入った衛のバンドのギグも祥子に教えることは無かった。後で、そのことを大方優希から聞いたのであろう祥子が残念そうに言ってくるのが、いつものことだった。自分でも、どうしてあの時の事で頑なになるのかが分からなかった。でも、どうしてももう一度祥子の前で演奏する気になれない――いや、本当は誰よりも彼女の前でギターを聴かせたいのにどうしてもそれを押し止めてしまうのだ。
 今回はどうしようか。いつもの様に断るのは簡単だ。でも、何故か今、ギターを初めて祥子に聴かせたときの彼女の笑顔がちらつく。あの時のように笑って聴いてくれるかな・・・そんな漠然とした期待――そして不安――を感じながら、竜彦は少し苦笑した。

 まだ校長の話は終わらない。もう何分経ったのか。時間を気にするのも煩わしい。考えるのも面倒になった竜彦は緩慢だが容赦ない眠気に襲われた。見ると、周りの連中も何人かは向こうの世界に旅立っているようだ。衛なんか大胆にも鼾をかましている。
 そういえば、去年のこの日も校長の話は格別に長かったっけ――消えゆく意識の中で、竜彦はふとそんなことを考えていた。


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